2007年03月18日

イラク侵略4周年を前に(第1部)

イラク侵略から4年が経とうとしています。日本で日常生活を忙しく送る大人にとってはあっという間ですが、4年といえば、小学校6年生が高校生になるくらいの長い時間。『ファルージャ2004年4月』著者の一人ラフール・マハジャンがイラク侵略4周年を前に綴った記事の第一部。
イラク侵略4周年を前に(第1部)
ラフール・マハジャン
2007年3月12日
Empirenote 原文

「イラク自由作戦」から4周年を迎えようとしている今日、もっとも視野の狭い偏狭な人々にさえ、この作戦がどれほど破滅的だったかがわかるだろう。イラクを解放するという筋書き通り、実際この作戦は、無数の人々の命を、この世の苦悩から「解放」した。

来週、私は、この巨大な犯罪の全体像を検討しようと思うが、今回は、とりわけ気になったいくつかのお話をするにとどめる。

一つは、最近バグダードのアル=ムタナビ通りで起きた自爆攻撃事件である。ムタナビ通りは書店街で、またバグダードの文学・文化生活の中心でもあった。ムタナビ通りでは、イラクが世界から遮断されていた12年の間にどこからでもいいから集められる物をすべて集めて(たとえば1970年代の『タイム』誌さえあった)日々の生活という牢獄から気を逸らしてくれるものを求めていたイラク人に提供している本のスタンドにはさまれて、知識人たちがお茶を何杯も飲みながら何時間も話にふけることのできるカフェが営業していた。

2004年、私はそんなカフェの一つで、16年間政治囚として投獄され、サダムがほとんどの監獄から囚人を一斉解放した2002年10月まで投獄され続けていた男性と出会った。彼は、1986年、サダムを侮辱する発言をしていた。それでも発言をした時期から言って彼は幸運だった。というのも、1990年代前半以降だったら、サダムの新しい法律により、彼は舌を切られていただろうからである。そんな彼でさえ、占領には強硬に反対していた。

なぜかしら、これまでムタナビ通りは、占領の暴力、自爆攻撃、死の部隊、適切な本以外は売らせないよう強制しようとする視野の狭い人々の活動といった様々な嵐を逃れてきた。けれども、ムタナビ通りは、今回の攻撃を乗り越えることができないのではないかと思う。

米国によるイラク侵略が始まったのは、公式には3月20日であるが、私にとって、戦争が始まったのは2003年3月16日、ブッシュが、サダムにイラクを離れるよう求めると同時に国連安保理に自分の意志に従うよう要求するという二つの最後通告を発したときである。

ある意味で、この日付は偶然の所産であるが----ブッシュはそれより2カ月早く戦争を始める予定だったが、トニー・ブレアがもう一度国連決議を試みるよう説得したのだった----、別の意味では、この日付には偶然のものは何もない。この日は不吉な記念日だった----サダムがイラク北部で進めた体系的な平定・反ゲリラ作戦アンファルの一部としてハラブジャのクルド人に化学兵器による攻撃を仕掛けてから15周年の日だったのである。

サダムによるこの犯罪は、アメリカ合衆国の全面的な支持にもとでなされたものだった。レーガン政権、そして今や聖人化された現大統領の父は、サダム政権に資金を提供し続けると同時に、また、サダムの犯罪に対して国連安保理が具体的な行動を採るかわりに無力な議長声明ですませるよう画策した。

アメリカの力を確認し、ただ自分たちだけに向けてアメリカの驚くべき善良さを繰り返し主張するかわりに、イラク戦争の人道的側面についての言葉が真面目に発せられたり考えられたりしてさえいれば、ハラブジャの犠牲者に対して何かがなされていたかもしれない。結局のところ、体制変更事態は、ジョージ・ブッシュ父がイラクで犯した冷血で卑怯な犯罪の流れとはっきり区別されるもので、我々が作りだした問題を我々が解決するという主張も、今回のイラク戦争の理由としてしばしば挙げられてきたものである。

ハラブジャの犠牲者たち----止まらない咳をしながら命を終えたり、いまだに汚染された水を飲んでいる人々----は、邪悪なゲリラやアカや不幸な「副次的被害」などとは異なり、究極の「正しい犠牲者」のはずである。それにもかかわらず、「体制変更」のあと、アメリカ合衆国もクルド人指導者たちも、この犠牲者たちに対しては死者の碑を建てる以外は何一つしていない。

2年前、大規模に行われた米国のイラク「再建」資金の「治安」資金への振り替えの一部として、水道設備の修復と拡大に割り当てられた1000万ドルの予算がキャンセルされた。アメリカ合衆国が現場幇助して作られた傷に塗り込められた決定的な侮辱だった。昨年、ハラブジャ虐殺を追悼する18回目の記念日の際、犠牲者たちは、自分たちを祭った碑を自ら破壊した。この記念碑を写真用に使うだけで犠牲者への実際の支援など何一つないことに抗議してのことだった。この抗議行動の際、治安部隊が一人の学生を殺した。クルディスタンというふさわしい名前を持った青年だった。この事件の事後調査に最近現地に行ったジョナサン・スティールは、ハラブジャで家族の半数を失った男性が記念碑について「奴らが記念碑を1000回建て直したとしても、私はそれを100万回焼き払ってやる」と語っていたと述べている。

私が付け加えることができることは、ほとんどない。

投稿者:益岡
posted by 益岡 at 10:31| Comment(0) | TrackBack(0) | イラク全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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