2009年10月03日

ファルージャ再訪

5年前に行なわれた米軍によるファルージャ包囲攻撃と虐殺に関する、4年前の記事です。『ファルージャ2004年4月』著者の一人、ダール・ジャマイル。
ファルージャ再訪
ダール・ジャマイル
DahrJamailIraq.com原文
2005年11月14日

米軍がファルージャで戦争犯罪を犯してから一年近くたった現在[現2009年から振り返ると5年近く]、主流メディアの中にもそうした戦争犯罪のいくつかを取り上げるものが現れた(ただし、当然予測されたことだが、米国の商業メディアはそれらをまったく扱っていない)。

2004年11月26日にインタープレス・サービスに寄稿した「ファルージャでは非通常兵器が使われた」という記事の中で、私は、ファルージャからの避難民たちが、町で様々な奇妙な兵器が使われた状況を詳しく語ったと述べた。さらに避難民たちは、「そうした爆弾が爆発して破片が発火し、その断片が皮膚に付くと水をかけても皮膚を焼き続ける」といった状況を詳しく述べた。

これについて私はその9日前の2004年11月17日に書いた「焼畑式」というタイトルのブログも言及した。同じファルージャからの避難民が同じ兵器について述べた記述は、「それらは地上で爆発して大きな火を放ち、30分くらい燃えつづける。米軍はそれを線路の近くに落とした。巨大な航空機からそれらが投下された。爆弾は戦車ほども大きかった。火に触れた人の体は何時間も燃えつづけた」。

2004年12月9日、私は一連の写真をポストしたが、その多くは、ファルージャで使われた焼夷兵器に関する伊RAIテレビのドキュメンタリーで使われた。

アブグレイブの拷問「スキャンダル」は、西洋の人々にとって2004年4月後半になってようやく「現実」的なものとなったが、イラクの人々そしてイラクで実際に報道に従事したジャーナリストたちは、米英軍兵士たちが占領のほとんど始めからイラク人を拷問し、今日も依然として拷問し続けていることを知っていた。

こうしたことを考えると、他にも行なわれただろう残虐行為に光が当てられるまでにどれだけ時間がかかるか疑問になる。ファルージャについて話すことだけを考えても、たくさんの出来事がある。それらについて報じているジャーナリストは私だけではないが、2004年11月のファルージャ虐殺のときに起きたことのいくつかを指摘しておこう。

2004年12月3日に発表した記事「ファルージャの難民たちが殺人地帯の生と死を語る」の中で、私は戦争犯罪の事例を多数紹介した。望むらくは、それらの犯罪が本来受けるべき注目を受けて欲しいと思う。

レバノンの衛星テレビ局LBCで働くジャーナリストのブルハン・ファサーは、ファルージャで最も激しい戦闘が行なわれていた9日間に現地にいたが、アメリカ人は英語が話せないイラク人に対してすぐ苛立ったと語っている。

「米兵は通訳を連れていませんでした」とファサーは言う。「ですから、人々の家に侵入したとき、住民が英語を話せないとなると殺したのです。私と26人がいた家に米軍兵士が入って来ました。米兵は[兵士の]命令に従わなかったとして、人々を撃ったのです。単に、人々が英語をまったくわからなかったというだけだったのに」。彼は続けて、「米軍兵士たちは、人々が命令を拒否していると考えたので、人々を射ったのです。実際には、米兵の言葉がわからなかっただけでした」と繰り返した。

カリルという名の男性は----報復を恐れて苗字は使わないよう私に求めた----、町から逃れようとして白旗を掲げていた人々に米軍が発砲したところを目撃したと語る。

「米兵は路上で負傷した人々を戦車で轢き潰しました」とファルージャの住人カッセム・モハンマド・アフメドは言う。「何度も起きたことです」。

他の避難民たちも同様の出来事を語っている。11月に戦闘を逃れてファルージャから避難した27歳のアジズ・アブドゥーラは「ファルージャではとても多くの民間人が殺されるのを目にしました。戦車が路上で負傷者を轢き潰すところも目撃しました」と語る。別のファルージャ住人アブ・アジズは、米軍の装甲車が生きていると思われる人々を轢き殺している現場を目撃したという。

ファルージャを逃れたもう一人の住民アブドゥル・ラザク・イスマイルは次のように言う。「地面に遺体が転がっていましたが、誰も埋葬できませんでした。米軍の狙撃兵が狙っていたからです。アメリカ人は遺体をファルージャ近くのユーフラテス河に投げ捨てたりしていました」。

アブ・ハマドと名乗る男性も、米軍兵士たちがイラク人の遺体をユーフラテス河に投げ込んでいるところを目撃したという。アブ・ハマドと他の数人は、また、米兵が白旗を掲げたイラク人に発砲したところを見たとも語った。

米軍とイラク軍がファルージャに残っている人々を皆殺しにするのだと考えた人々は、包囲を逃れてファルージャから逃げ出すために人々はユーフラテス河を泳いで渡ろうとしていたとハマドは言う。「そうした人々にさえ、米兵は川岸からライフルを撃ったのです」と彼は言う。「中には白旗を掲げたり、頭に白い布を巻いて、自分たちは戦闘員ではないことを示していた人々もいましたが、全員、撃たれました」。

AP通信のカメラマン、ビラル・フセインも同様の出来事を目撃したと語る。米軍主導の攻撃が最も激しかったときに生活必需品に事切れファルージャから逃げ出す決意をしたフセインは、ユーフラテス河に飛び込んだ。

「泳ぐことにしました」。彼の痛ましい経験を記事にしたAP通信の同僚にこう語った。「でも、米軍ヘリが河を泳いで渡ろうとした人々に発砲し射殺しているのを見て、泳いで渡るのを諦めたのです」。

ユーフラテス河を泳いで渡ろうとした5人家族を米兵が殺すところを目撃したとフセインは言う。それから、素手で川岸に男性を埋葬した、と。

「河にそって2時間程も歩き続けましたが、どこにいっても米軍の狙撃兵がいて、泳いで渡ろうとする人々を撃とうと構えていました」。フセインは当時の状況を思い起こしてこう語った。「河を泳いで渡るのは諦め、5時間程も、果樹園の中を歩き続けました」。

カリルという名の男性----報復を恐れて苗字は使わないよう私に求めた----は、町を逃れようとして白旗を掲げた住民が撃たれるのを目撃したと言う。「米軍は、路上で、女性にも老人にも発砲しました」と彼は言う。「それから、遺体を回収しようとした人に向けても発砲したのです」。

「アメリカ人は遺体を河に投げ捨てました」とカリルは言う。自分自身も、米軍兵士がユーフラテス河を遺体捨て場に使っていた現場を見た、と。「そうしたことから、ファルージャに残っていた人々は米軍に皆殺しにされると考え、河を渡って逃げようとしたのです。泳げない人さえ、河を渡ろうとしました。街に残って米軍に殺される代わりに溺れ死ぬことになったのです」とカリルは言う。

軍がでたらめな嘘をつくことにどうして驚く必要があるだろう? 既に2003年11月、私は、米軍兵士がサマラでフェダイン・サダムの襲撃を受け、そのメンバー48人を殺したと米軍が主張した事件について記事を書いた。米軍は当初発表後、一夜明けて魔法のように殺した人数を54人に増やしていた。私はこの事件を調査して、実際には民間人8人が殺されたことを突き止め、それについて記事をここに、写真をここにポストした[「ここ」二カ所ともリンク切れ]。

それにしても、これに驚く必要があるだろうか? 我々の政府は国を不法な侵略戦争に導き入れ、それについて嘘をつきつづけている。拷問や焼夷兵器の使用も、その路線をほぼそのまま引き継いだものなのだから。

投稿者:益岡
posted by 益岡 at 11:06| Comment(0) | TrackBack(0) | ファルージャの状況 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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