2006年08月31日

昨日(28日)、100人が殺された

膨大な数の人々が殺されている中、国際社会はほとんど事態の深刻さを感じられなくなっている・・・

昨日(28日)、100人が殺された
ジェフ・サバーンズ・グンツェル
2006年8月29日
Electronic Iraq 原文

イラクの日曜日はひどく死者が出た。月曜日はもっとひどかった。インディペンデント紙に書いているジェローム・テイラーから引いてみよう。

イラクでは、激しい銃撃戦と自爆攻撃により少なくとも100人が昨日一日で殺された。これは、戦争で破壊されたこの国の治安状況は改善されているという米軍の主張と矛盾している。

バグダードの80マイル南にあるディワニヤーでは、政府軍部隊と、急進的な聖職者ムクタダ・アル=サドル師に従うシーア派民兵マフディ軍が交戦したあと、街の中央病院に34人の遺体が運び込まれた。うち7人は民間人、25人はイラク政府軍兵士だった。イラク国防省によると、民兵も50人殺されたという。

それとは別に、バグダードでは、午前中のラッシュアワーに、爆発物を積み込んだ車を自爆攻撃者が内務省に突っ込ませ、15人を殺し62人に怪我を負わせた。殺されたうち13人は警官だった。

日曜日には、クルド人が支配している北部のキルクークから南部のバスラまでで起きた様々な攻撃により、さらに60人が殺されていた。

今年2月にサマラの町でシーア派モスクが破壊されて以来、半年近くにわたり続いている分派的暴力がいかにイラクに容易にもたらされるかを、この最近の暴力は思い起こさせてくれる。

イラクで毎日どれだけの人が死んでいるか、死者数の情報を手に入れるのはそう難しくはない。そして死者数はあくまで数にすぎないから、人々は「100人が昨日一日で殺された」という下りをちょっとため息をつくだけで読み終えることができる。インディペンデント紙のジェローム・テイラーもどうやらこのことに気づいていたようで、「数を数える」ときにあまり記者がやらないことを行なった。ちょっと一歩退いて、次のように述べたのである。

「この4カ月だけで、1万人以上のイラク人その大部分はバグダードでが殺された」とテイラーは書いている。「世界の別の場所で起きていたならば、国際社会に衝撃が走るだろう死者数である」。

「私たちは何が起こっているか知らなかったのです」。ナチスドイツによる絶滅収容所が暴かれたとき、ドイツ市民が述べ、アメリカ合衆国などの「解放者」たちに揶揄され続けてきた言葉です。

投稿者:益岡
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2006年08月26日

私はイラクでプロパガンダ見習い生だった (2)

米国のプロパガンダ企業リンカーン・グループの見習いとしてバグダードで一夏を過ごした青年が、経験を語る。続き。

私はイラクでプロパガンダ見習い生だった
デモクラシー・ナウ! インタビュー
2006年8月22日
Electronic Iraq原文

エイミー・グッドマン:それでは、ウィレム。どうやって記事を選んだか教えて下さい。あなたが話をした将軍たちについて、記事の中身がどのようなものだったかについて。

ウィレム・マークス:はーい。キャンプ・ビクトリーのその部署から、一日約5つの記事を受けとりました。それらは、様々で、たとえばイラクの女性政治家のプロフィールといったものから、工場や病院が開いたこと、テロリストが殺されたことなど、多岐にわたります。私は、できる限り、テロリズムやアブ・ムサブ・アル=ザルカウィに関する記事は扱わないようにしました。それらはとりわけ扇動的で、イラクのゲリラに対する地元の人々の気持ちについて知識が欠如したようなものが多かったのです。

私はできるだけ、再建についての記事を掲載させようとしました。それらをイラク人職員に渡したのです。病院が再建されたことについての記事、それらは冷静な記事でした。書き方が上手いとは言えないものも多かったのですが、それらは、イラクの中でも海外でも主流派メディアが書かないようなことだと思いました。単に、そうした情報を知ることができないからです。そして、そうした記事を使うのは、状況を改善する一助にもなりそうで、嫌な気持ちでなくできたからです。

エイミー・グッドマン:それで・・・・・・

ウィレム・マークス:すみません、何ですか?

エイミー・グッドマン:それらの記事を選んでから何をしたのか教えて下さい。それを誰に送るのですか?

ウィレム・マークス:リンカーン・グループが商業地に構えるイラク支局のオフィスのイラク人に送ります。このオフィスの職員は全員が地元のイラク人で、彼が、オフィスにいる翻訳者の一人を選び、記事をアラビア語に翻訳してもらって、それを私に送り返すのです。残念ながら、私はアラビア語をまったくよく読めません。それから私はそれを司令部に送ります。司令部にもイラク人通訳がいて、英語の原文と付き合わせてチェックするのだと思います。司令部はそれに押印し、私はそれをイラクのオフィスに送り返して「これはOKが出た。A紙、B紙とC紙に記事を掲載させるように」と言うわけです。

そこから先のプロセスは、私が管理できる部分ではありません。イラク人職員は、私が記事を掲載させるよう求めた新聞に記事が発表されるよう最善を尽くすわけです。けれども、うまく行かないことも多く、私は、どうして一定の新聞にはそれらの記事をうまく押し込めないのか疑念を持ちはじめました。その疑念から、自分としては、イラクで過ごした中で最もショッキング経験をしました。イラク人職員の何人かに、私が最初に来たときと比べると、私たちが求めたのではない新聞に記事が掲載され、私たちが求めた新聞に記事が掲載されないことがはるかに多いのはどうしてか聞くよう求められたとき、頭にあった疑念は、イラク人職員たちが、会社がそのために用意した金を横領しているのではないかというものでした。

エイミー・グッドマン:それについて、グリーンゾーンの外に出て、この尋問を行ったときのことについて説明してもらえますか?

ウィレム・マークス:それは驚くべき経験でした。会社での私のボスが私に、フローチャートのギャップに注意するよう求めたのです。そのチャートは、どれだけの記事がどこに掲載されたかを監視しているもので、その記録にとても奇妙なことが起きていることに気づきました。それで、私自身がそれを調査することになったのです。そこでグリーンゾーンの友人を連れて行きました。この人物は近くに住むイラク人で、別の米国契約企業のために働く便利屋といった人でした。彼は私の友人として、また通訳として一緒に行くことに同意しました。ほかのイラク人職員は彼を知らず、何か不正があったときに、追求したり疑ったりすることはできませんでした。

彼と私は、たくさんの検問を抜けてダウンタウンのオフィスに車で行きました。午後の盛といったときにオフィスにつきました。アパートの中にあるオフィスは、むろん施錠され、重警備されていました。私はすぐにイラク・オフィスの代表のところに行き、「このギャップについて誰々と話をし、誰々に質問したい」と言いました。そのとき、私は、誰が実際に関与していて、誰が操作をしているかわかりませんでした。というのも、私のアラビア語はまったく幼稚で、目の前で話されていることがわかることはほとんどなかったからです。ですから、誰を信用すべきか知るのは難しかったのです。それから私は職員一人ずつと座って順番に記事を発表することについて何をしているか質問し、地元新聞の編集者と共謀してキックバックを取っているかどうか聞きました。

私が書いたとても驚くべき出来事は、職員の一人、私は彼を信用しなかったのですが、その彼が私が向けた非難についてとても怒って抗議していたときのことでした。私はグリーンゾーンの外に出るときに携行する銃を持っていました。小さなグロック・リボルバーで、それをベルトにはさんでいたのですが、座ってこの人物に話をしているとき、少したって、そのリボルバーが私のベルトで不愉快なところに挟まっていることに気づきました。私は、とても批判的な質問を始めながら、ベルトから銃を取り出して、彼と私の間の机の上に銃を置いたのです。その瞬間、自分がしたことが恐ろしく脅迫的な行動だと気づきました。自分に本当に嫌気が出したのですが、その人物は私の前から立ち去りました。別の人に質問しているときに、彼はオフィスから走り去ってしまいました。

イラク人職員に圧力をかけるために、私の友人である通訳とともに随行してきた二人の男は、ムハバラトの元職員でした。サダム時代の諜報サービスの一部だったのです。その二人は、最もよい方法は、CIAの調査だとして逃げた男を脅すことだと言いました。CIAという三文字は、イラク人すべてにとって、もっとも恐ろしい三文字だというのです。私が話をした男が建物を立ち去ったと聞いたとき、まわりは暗くなりかけていましたし、そろそろそこから立ち去らなくてはならないと決心しました。ジャーナリストになりたいならば、自分の時間を使うべきことは、このようなことではまったくないと悟ったのです。それを機に、私はバグダードから早々に立ち去ることにしました。その週に、私は決心し、すぐにイラクを立ち去ったのです。

エイミー・グッドマン:始点と終点の両方で話していた金額についてお話してもらえますか? 一方で、新聞に支払われることになっている金の一部を着服したかも知れないイラク人職員にあなたは尋問していました。その一方で、リンカーン・グループは何百万ドルもの金を受け取っていたわけですが。

ウィレム・マークス:もちろんです。

エイミー・グッドマン:説明していただけますか?

ウィレム・マークス:私にとってとてもショッキングなことだったのは、イラク人職員に質問するためにオフィスに送られたときですが、イラクで最もよい新聞に記事を押し込むのに、一記事あたり、たぶん最大で支払ったのは2000ドル程度だったでしょう。そして、職員たちはその半分を着服していたのではないでしょうか。そうだとすると、イラクでは、おわかりいただけると思いますが、それは大きな金で、職員とその家族にとってとても大きな助けとなったでしょう。

一方、それでも、リンカーン・グループが米軍と結んだ契約に含まれていた事項の一つ、ライン項目と呼ばれるものですが、その一つは、イラクのテレビにCMを入れるもので、30秒の放送用CMを撮影し編集して放送するものです。そのCM一つ一つについて、100万ドル、100万ドル強の支払いを受け取っているのです。そして、実際のところそのためにかかる費用はどのくらいなのか知ろうと思って聞いたとき、実際にはそうしたCMは一つにつき1万2000ドルで放送させることができるというのでした。おわかりのように、相当の利益マージンです。それなのに、私は、たった1000ドルをめぐって、銃を持って人々を尋問するというわけです。

エイミー・グッドマン:それに関与していた米軍の将軍たち、そしてそれらの記事を押し込んだイラクの新聞についてお話いただけますか?

ウィレム・マークス:はいはーい。記事を扱うプロセスでは、私と米軍の担当部門の大尉や少佐たちとのあいだで、やりとりがあったりしました。そして、私と彼らの関係は、会社にとってとても大切だったのです。私はしばしば外交的にふるまい、しばしば批判的にふるまわなくてはなりませんでした。また、ときに、イラクのメディアに押し込まれる記事について、自分の編集権を放棄しなくてはならないこともありました。というのも、彼ら自身も、当時のイラク最高司令官ケーシー将軍のような上から命令を受けていたからです。今も受けていると思いますが。ケーシー将軍は、「残念ながら、それはだめだ。この記事を公表することはとても重要だ。リンカーン・グループがそれを確実に公表するようにしなくてはならない」などと言ったのです。そして、ご覧の通り、そうした記事は新聞に掲載させなくてはなりませんでした。その記事は妥当ではなく、それを読んだ多くのイラク人が苛立ち、あからさまなアメリカ合衆国のプロパガンダと思うだろうと私が感じても、です。

そして、私たちが相手にしている新聞は、そのような場合には、いったい誰がこの記事を出させようとしているのか、記事の出所はどこなのか、フリーランスのイラク人記者が新聞社のオフィスに姿を現して記事を掲載するのに1000ドルとか2000ドル払うと言うのはなぜなのかについて、とても、とても疑い深くなりました。編集者の中には、アメリカ人が関与しているのではないかという大きな疑いがあったに違いありません。

ケーシー将軍がぜひ新聞に載せたがった記事がありました。それは、ご存じと思いますが、シーア派民兵バドル旅団についてのもので、基本的に、バグダードでのシーア派に対する攻撃に報復しなかったことでバドル旅団を褒め称えたものです。ケーシー将軍はそれを強く新聞に掲載させたがっていましたが、新聞社二社がたて続けに掲載を拒否しました。政治的に扇動的過ぎたからです。それはとても面白い経験でした。超上級の米軍将軍がこの煩雑なことにかかずらわってある一つの記事を掲載させたがり、結局、まともな心を持ったイラクの新聞社は、どれだけ金を積まれてもそれを掲載しようとしなかったのです。

エイミー・グッドマン:さて、ウィレム・マークス。今日はご出演して下さってどうもありがとうございました。米国に戻る旅が安全でありますように。ニューヨークでジャーナリズムのコースに戻ったときにお会いできることを楽しみにしています。ウィレム・マークスは、『ハーパーズ』誌最新号に「嘘を伝える見習い生:軍のプロパガンダ担当として過ごしたイラクでの夏」という記事を掲載しています。

投稿者:益岡
posted by いけだ at 14:41| Comment(0) | TrackBack(0) | イラク全般

私はイラクでプロパガンダ見習い生だった (1)

米国のプロパガンダ企業リンカーン・グループの見習いとしてバグダードで一夏を過ごした青年が、経験を語る。

私はイラクでプロパガンダ見習い生だった
デモクラシー・ナウ! インタビュー
2006年8月22日
Electronic Iraq原文

彼は、クルド人治安要員2人に付き添われてバグダードを車で通っているとき、装填された小型軽機関銃を抱えていた。

グリーンゾーンにある彼の寝室には、300万ドルの現金があった。

銃で武装した彼は、イラク人職員に、仕事をしているかどうか尋問した。

彼は、バグダードで一夏を過ごした。米軍が秘密裡に書いた親米的記事をイラクのメディアに発表されるために金を渡す役割だった。

彼はわずか22歳で、ワシントンに本社を置き米国政府と契約を結んだリンカーン・グループの見習い生だった。この会社は、秘密軍事プロパガンダ・キャンペーンの一環として、イラクのメディアに記事を押し込むためにペンタゴンが金を払っている相手であることを、昨年11月にロサンゼルス・タイムズ紙が報じたことにより悪名を馳せた。それを受けて3月にペンタゴンが行った調査により、リンカーン・グループは何も悪いことはしていないということになった。

本日、我々は、リンカーングループの元見習い生、ウィレム・マークスにインタビューした。マークスはフリーランスの著述家で、ニューヨーク大学でジャーナリズムを専攻する大学院生である。彼が経験を詳しく綴った記事は、『ハーパーズ』誌の最新号に掲載されている。その記事のタイトルは「嘘を伝える見習い生:軍のプロパガンダ担当として過ごしたイラクでの夏」というものだった。彼は、ウズベキスタンから電話でインタビューに答えてくれた。

エイミー・グッドマン:本日、私たちは、リンカーン・グループの元見習い生とお話しします。彼の名はウィレム・マークス。ウズベキスタンから電話での参加です。彼はフリーランスの著述家で、ニューヨーク大学でジャーナリズムを専攻する大学院生でもあります。彼の最新記事は、『ハーパーズ』誌最新号に掲載されており、彼自身の経験を語ったものです。タイトルは「嘘を伝える見習い生:軍のプロパガンダ担当として過ごしたイラクでの夏」というものです。ウィレム・マークス、私たちの番組へようこそ。

ウィレム・マークス:やあ、エイミー。お話できてうれしいです。

エイミー・グッドマン:番組に出てくれてありがとう。まずは、どうしてこの仕事についたかから教えてもらえますか?

ウィレム・マークス:ちょうど一年ちょっと前、オックスフォードで卒業試験の準備をしていたときのことで、ニューヨークに住むいとこの一人が、バグダードで見習い生を募集している会社があると教えてくれたんです。次の9月からニューヨーク大学で勉強することが決まっていたので、イラクで夏を働いて過ごすのは、駆け出しの若い記者としてはとてもよい経験になるだろうと思いました。そこで、履歴書を送ったのです。募集中だったのは、メディア関係の見習いだと考えました。あまり詳しいことは書いてなかったのです。そして、私の年齢でそうした機会を手にすることはとても稀なことに思えました。履歴書を送ったあと、その会社から連絡があり、何度か電話でインタビューをして、まもなくワシントンDCに飛行機で行き、軍の身分証明書を受け取って、数日後にはバグダードにいたのです。

エイミー・グッドマン:ここ米国に来たとき、リンカーン・グループの創設者たちに会いましたか?

ウィレム・マークス:会いました。二人です。一人はクリスチャン・ベイリーで、私と同じ英国人でした。もう一人はページ・クレーグという元海兵隊員で、ワシントンDCの本社でのことです。

エイミー・グッドマン:その人たちについて、それからそのへんについてもっと教えてもらえますか・・・

ウィレム・マークス:もちろんです。DCに来たのは、そこの大学に通っているいとこに会いに来て以来、数年ぶりのことでした。街についてはあまり知りませんでした。彼らは、会社のオフィスのそばにあるホテルに私を入れたので、ついた日はそのホテルに泊まりました。それは、ロビー産業の中枢となっているK通りにありました。そうして私は二人に紹介されました。ページ・クレーグはとても軍人っぽく、あまり人なつっこい感じではなく、ちょっと私にぶつぶつつぶやいただけでした。一方、クリスチャン・ベイリーは私と同じくオックスフォード出だったので、それについてしばらくのあいだ話をしました。

二人とも、イラクで私が何をすることになっているかについて、あまり積極的に教えてくれませんでした。詳しいことについてはかなり曖昧だったのです。でも、二人とも、私のような若者にとってすばらしい機会だと説明しました。彼らの会社は急成長中でした。彼らは私を飛行機に見送り、幸運を祈ると言っていました。

エイミー・グッドマン:ウィレム・マークス、一休みしましょう。それから、イラクで過ごしたときのことについて、グリーンゾーンの中と外での様子についてお聞きしたいと思います・・・・・・。ウィレム・マークスは、リンカーン・グループの元見習い生です。そのままでお待ち下さい。

[休憩]

エイミー・グッドマン:今日のゲストはウィレム・マークスです。ウズベキスタンにいる彼とお話しています。彼はフリーランスの著述家で、大学院生でもあり、昨夏を、リンカーン・グループの見習い生としてイラクで過ごしました。彼が『ハーパーズ』誌最新号に掲載した記事は「嘘を伝える見習い生:軍のプロパガンダ担当として過ごしたイラクでの夏」というタイトルです。ウィレム・マークス、リンカーン・グループを創設した二人は、イラクに行ったことがあるのでしょうか?

ウィレム・マークス:はい。元海兵隊員のページ・クレーグは、2003年3月の侵略以来、かなりの時間をイラクで過ごしているようです。私にわかるところでは、彼は、海外投資家のビジネス・チャンスを広げ仲介するためにそこにいき、また、とても回りくどいやり方で、彼らが「戦略的コミュニケーション」という分野で米軍と契約をすることになったようです。

もう一人、英国人のクリスチャン・ベイリーは、私が最初にあったときには、イラクに行ったことがなかったようです。イラクに行こうとする度に、いつも、DCで何か用事ができて、DCに留まる必要があったそうです。私がイラクに発ったあと、8月の末ですが、彼は数日間イラクに行ったようです。けれども、私が知る限りでは、彼がイラクに行ったのはそのときだけです。

エイミー・グッドマン:そうして飛行機に乗り、バグダードに行ったわけですね。イラクでの経験について教えて下さい。

ウィレム・マークス:そうですね。バグダード空港についてから、キャンプ・ビクトリー経由で、グリーンゾーンにある家に連れて行かれました。一週間ほどあまり何もせずに過ごしたあと、我慢できなくなって、DCに電子メールを書き、「私はここで何をしているんでしょう? 何らかの仕事をすると思っていたのですが」と言いました。それから1日か2日たったときに、別の職員が昼食に私を連れだし、そこで、リンカーン・グループが正確に何をしているか、詳しく私に説明してくれたのです。私は彼の立場を引き継ぐことになっていました。というのも、彼は休みをとって休暇に行くことになっていたからです。

そして、彼がやっていることは、バグダードのすぐ南にある大規模な米軍基地であるキャンプ・ビクトリーの中の、ある部隊の兵士たちが書いた英語の記事を受け取ることでした。彼は、それらの記事の中から、イラクの様々な新聞に掲載するものを選んでいたのです。彼はそれらの記事をイラク人職員に送り、イラク人職員たちがアラビア語にそれらを翻訳し、キャンプ・ビクトリーの司令部からOKをもらって、別のイラク人職員たちにイラクの様々な新聞社にその記事を届けさせ、そこで編集者・編集補佐、嘱託編集者に金を払って、イラクの新聞にそれらの記事をニュースとして掲載させていたのです。それが役割でした。1週間か10日あまりそこにいたあと、私はその仕事を引き継いだのです。

そして、最初の2、3週間ほどは、計画通りものごとは進んでいたように見えました。私は自分がしている仕事をあまりうれしく思っていたわけではありませんが、米軍がイラクでどのような活動をし、契約企業がどのような活動をするかについて、とてもとても興味深い洞察を得られる機会だと思っていました。それから、事態は少しスリルのあるものになりました。というのも、会社が、テレビやラジオ、インターネットそしてバグダード中のポスターなどを通して、さらに大規模な、あらゆる種類の、メディアを通した情報発表について契約を提案されたからです。そこで、私は予算計画やこの大きな契約の実行の準備に関わりました。リンカーン・グループにとって、一月で1000万ドルにのぼる契約でした。

エイミー・グッドマン:1000万ドルですか。MSNBCによると「2005年12月、ペンタゴンの文書は、リンカーングループは〔・・・・・・〕米国にとって好ましい記事を作成し、アラビア語に翻訳し、イラクの新聞にそれを植え付け、それがペンタゴン発であることを隠しておくために1億ドルの契約を受注したことが示されている」とありますが。

ウィレム・マークス:MSNBCは少し混乱しているのではないかと思います。リンカーン・グループは、フロリダで計画された心理作戦共同タスクフォース、こう呼ばれていたと思うのですが、そのタスクフォースによる1億ドルにのぼる契約を提案された3つの企業の一つなのです。

そして、1億ドルというのは、企業の計画とアイディアによるもので、それを軍に売るというものでした。この契約は、少なくともリンカーン・グループに関しては、キャンセルされました。たぶん、最近、もしかすると今月のことです。ワシントン・ポスト紙に、それを報じた記事を見たと思います。ですから、その1億ドル会社にはほとんど支払われなかったと思うのですがを、会社は、すばらしい業績として言いふらしたわけです。けれども、2カ月にわたる2000万ドルの契約、イラクのメディアに記事を押し込む1カ月1000万ドルの契約は、イラクで軍と会社が取り結んだ別の契約なのです。

後半に続きます

アメリカ合衆国の諜報機関CIAなどが、プロパガンダ記事を様々な国の「自由なメディア」に押し込むことについては、ウィリアム・ブルム『Killing Home』などでも論ぜられています。

投稿者:益岡
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2006年08月15日

ブッシュのイラクがサダムのイラクよりひどいわけ

『アメリカの国家犯罪全書』の著者で元米国国務省職員だったウィリアム・ブルムが、サダム支配下のイラクと米軍占領下のイラクを比較する。

 「一つ教えてくれ。サダム・フセインが失脚してうれしいか?」
  私は「いや」と答える。

ブッシュのイラクがサダムのイラクよりひどいわけ
ウィリアム・ブルム
2006年6月21日
CoutnerPunch原文

米ナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)の海外特派員でNPRのバクダード事務所に詰めているローレン・ジェンキンズは、今月(2006年6月)上旬、シーア派の高位聖職者と会談した。この聖職者はNPRが「穏健派」と述べる人物で、シーア派信者たちを平和と和解に導こうと努めている人物でもある。彼はサダム・フセインに投獄されたことがあり、亡命生活を余儀なくされていた。ジェンキンズは彼に次のように聞いた。「サダム・フセイン時代に戻らなくてはならないとすると、どう感じますか?」 これに対し、この聖職者は、「今のイラクよりはサダム・フセイン支配下のイラクのほうがまだましだ」と答えた。

2003年以来のアメリカ合衆国による爆撃と侵略、体制変更と占領の結果イラクの人々が経験したことを考えるならば、この人物からさえ、そうした見解が表明されることは驚くべきことだろうか? 私は、イラク人の祖国をアメリカ合衆国が「解放」したために、イラクの人々の頭の上に降りかかることとなった多くの不幸についてリストを作る気になった。そのリストは気の滅入るもので、読者の方々はすべてを読みたいとは思わないかも知れないが、一カ所にまとめて要約しておくことは大切だと思う。

教育システムの機能が失われたこと。2005年に国連が行った調査では、高等教育機関の84%が「破壊されたか、ダメージを受けたか、略奪をうけたか」している。

イラクの知的蓄積は、何千人もの大学関係者やそのほかの専門家が国外に脱出したか、イラクで謎のように誘拐されたり暗殺されたりしたことで、さらに弱体化した。また、そのほかに、数十万人、もしかすると100万人近い教育を受けた中流階級の活発な人々が、ヨルダンやシリア、エジプトに逃れた。多くが、殺害脅迫を受けたあとで国外に逃れたのである。

「今や、私は一人きりです」と、ある中流階級のスンニ派アラブ人は言う。彼も、国外に出る決心を固めた。「政府はありません。政府からは何の保護も受けられません。誰でも家にきて、私を捕まえ、殺してゴミ捨て場に投げ込むことができます」[1]。

機能していた医療体制が失われたこと。人々の健康が失われたこと。腸チフスや結核のような致命的な伝染病がイラク全土に広まっている。イラクの病院と保健センター・ネットワークは、かつては中東で賞賛の対象だったが、今や、戦争と略奪により大きな損害を受けている。国連の世界食料計画(WFP)は、イラクの子どもたちのうち40万人が「危険なまでにタンパク質が不足して」苦しんでいると報じている。栄養失調や予防可能な病気これらは12年にわたり米国が課した経済制裁のために以前から問題だったがが、とりわけ子どもたちの間で増えている。貧困と混乱により、きちんとした食生活や医療を手に入れることがさらにいっそう難しくなったためである。

手足を失ったイラク人は何千人もいる。米軍が落としたクラスター爆弾の不発弾が地雷となって、それにより手足を失った人も多い。様々な人権団体が、クラスター爆弾を、民間人とりわけ子どもたちに対して無差別に被害をもたらす残酷な兵器であると非難している。

米軍の大砲から発射されて爆発する劣化ウランの粒子はイラクの空中を漂い、人体に吸い込まれて永遠に内部被曝を続ける。また、水や土地、血液、遺伝子を汚染し、体に異常を抱えた子どもたちを作る。2003年春、戦闘時の数週間に、劣化ウランを含む弾頭を搭載したA10「戦車破壊」機は、30万発以上を発射した。

そしてまた、ナパームの使用。白燐兵器の使用。

米軍は、病院も攻撃した。米軍が公式発表する犠牲者数と矛盾する米軍攻撃の犠牲者数を病院が発表しないようにするためである。それまで、病院は犠牲者数を発表する習慣だった。

数多くの家が米軍に押し入られ、男性たちは連れ去られ、女性たちは侮辱され、子どもたちはトラウマを抱えることとなった。多くのこうした家族は、米軍兵士たちが家族の金を盗んでいくと述べている。イラクは、裸にして調べられるという屈辱的な扱いを受けている。

イラクの古代遺産人類の過去に関する世界に残る最大のアーカイブかも知れないも、破壊され略奪されているが、石油施設を防衛するのに忙しい米軍は、遺産の保護など行わない。

ほとんど無法の社会。イラクの法体制は、政治的領域を除くと、以前は中東で最もめざましい、世俗的なものだった。それが今や大混乱状態にあり、宗教法がますます広まっている。

かつて広まっていた女性の権利は、今や様々な領域で様々に適用される過酷なイスラム法のもとで巨大な危機に晒されており、その危機は高まっている。今日では、イラクのシーア派宗教支配層の中には、腕を露出したり男友達とピクニックに行ったりという理由で女性に身体的攻撃を加えることを容認するような人々もいる。

短パンで表に出る男性も嫌がらせを受けることがあり、短パンをはいて外で遊ぶ子どもたちも同様である。

セックス目的の人身売買は、以前はほぼまったく存在しなかったが、今や重大な問題となっている。

ユダヤ教徒、キリスト教徒をはじめとするムスリム以外の人々は、サダムの世俗政権下で享受していた安全のほとんどを失い、多くの人が移住した。

米軍やイラク新政府が運営する強制収容監獄の中では、様々な拷問と虐待が行われている身体的なもの、心理的なもの、感情的なもの、苦痛や屈辱、侮辱を与え、精神を崩壊させたり、死や自殺に至らしめたりといった拷問と虐待で、人権の破滅地帯となっている。

5万人以上のイラク人が米軍侵略以来、米軍によって投獄されたが、そのうち何らかの犯罪で有罪とされたのは、ほんのごくわずかである。

米軍当局は、サダム・フセイン政権下で人々に恐れられていた治安サービスの要員たちを雇い入れて情報収集活動を拡大し、レジスタンスを根絶しようとした。

失業率は約50%と推定されている。

アメリカ合衆国占領当局は、当初、バアス党政府職員や兵士の大量解雇を実行した。のちに、必死に仕事を求める多くの人々が、占領と関係がある汚れた職に就き、誘拐されたり殺されたりといった大きな危険に身を晒さざるを得なくなった。

生活費は急上昇し、収入は急落した。

イラク北部のクルド人たちは、アラブ人を追放した。アラブ人たちは、イラクのそれ以外の地域でクルド人たちを追放した。

多くの人が、バアス党員であるという理由で、自宅から追放された。米軍兵士たちがこうした追放に参加したこともある。

米軍兵士たちは、仲間の一人が殺されたという理由で激怒し、家を破壊するといったこともある。

米軍兵士たちは、探している人物を見つけられないときに、そこにいる人間を誰彼かまわず連れ去ることがある。夫が出頭するまで妻が拘束されたりする。これは、ハリウッド映画によりナチスのとりわけ悪辣な高位としてアメリカ合衆国人の心に刻み込まれていた行為だったはずであり、また、民間人に対する集団的懲罰として、ジュネーブ条約で禁止されている行為である。

住宅地に爆撃攻撃が続けられることで、数え切れないほどの家や仕事場やモスクや橋や道路や、現代の文明生活に必要なあらゆるものが破壊された。

ハディーサ、ファルージャ、サマラ、ラマディ・・・・・・米軍が無差別破壊と殺人、人類と人権に対する攻撃を行った場所として、汚名を帯びて伝えられる地名である。

安全な飲み水、効果的な汚水排水機能、安定的な電力供給などは、すべて、全体として侵略前よりもひどい状態にあり、摂氏45度にもなる気温の中で、人々に継続的な困難を強いている。この悲惨な状況に追い打ちを欠けるように、人々はガソリンを買うために熱気の中で一日中待たなくてはならない。その理由の一つは、イラクの主要収入源である石油の生産が、侵略前の半分以下になっていることにある。

1991年、湾岸戦争の際、米軍は、上下水道システムをはじめとするイラクのインフラを意図的に破壊した。2003年までに、イラクの人々は、破壊されたインフラの主要部分を相当までに修復していた。アメリカ合衆国政府が新たな爆撃をイラクに加えたのは、そのときである。

内戦、「死の部隊」、拉致、自動車爆弾、強姦が毎日毎日起きる。・・・・・・イラクは地上で最も危険な場所になった。米軍兵士と私営治安企業は何度も人々を殺しては、遺体を路上に遺棄しておく。米軍が訓練したイラク軍と警察部隊は、さらに多くの人を殺し、ゲリラも多くの人を殺す。暴力とセクト的基準を持った新たな世代がまるごと育ちつつある。これは、将来永年にわたり、イラク人の心理状態を毒することになるだろう。

米国諜報部と軍事警察は、しばしば、ゲリラをスパイするという条件で、危険な犯罪者を釈放する。

様々な理由で抗議を行う人々が、米軍兵士に撃たれたことも何度かある。

何度も、米軍は、アルジャジーラ・テレビの記者を殺し、怪我を負わせ、投獄し、アルジャジーラの事務所を閉鎖し、いくつかの地域から閉め出した。占領当局が、アルジャジーラの報道を気に入らなかったためである。

新聞も、記事にした内容を理由に、閉鎖させられた。

ペンタゴンは、イラクのメディアに金を払ってプロパガンダ目的の記事を報道させている。

それでも、実際、自由がイラクを席巻している巨大多国籍企業は、公益を守る法律や環境規制、労働者保護規制に邪魔されることなく、イラクの資源と労働力から略奪できるものをすべて略奪している。このところの流行は、私営化、規制撤廃、そしてハリバートンをはじめとする西洋企業の「お気に召すまま」である。イラク人のビジネスは、能力がないわけではないがそれは1991年の米軍による爆撃以降、イラクのインフラを立て直したことに示されている、ほぼ完全に閉め出されている。

それにもかかわらず、アメリカ合衆国の行為によって改善されたイラク人の生活領域を一つとして挙げることは難しいにもかかわらず、イラクが話題に上り、私が話している相手がイラクにおける米軍の政策を擁護する議論のネタ切れを起こすと、少なくともそのとき、相手は私に次のように聞く。「一つ教えてくれ。サダム・フセインが失脚してうれしいか?」 

私は「いや」と答える。

その相手は「うれしくないのか?」と聞く。

私はさらに「うれしくない」と答える。どうか教えて欲しい。膝が痛くて病院に行ったら、外科医が足をまるごと切り落としてしまったとする。誰かに、「膝の痛みがなくなって、うれしいでしょう?」と聞かれたら、どう思うだろうか? 確かに、イラクの人々には今や、サダムの問題はない。

実際のところ、サダムを支持していたイラク人は少なくなかった。

[以下、話題が変わるので省略します]

ちょうど、日本がかつて行ったと同様の、あからさまな侵略と不法占領。そして、イラク人ゲリラの立場がどうであれ、また、侵略者がどのような口実をつけようと、侵略に同調する観点から抵抗者を「テロリスト」と呼ぶのは、ナチスがフランスのレジスタンスを「テロリスト」と呼んだのと、同じことになります。

日本の首相小泉純一郎が靖国神社を参拝した日に。

投稿者:益岡
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2006年08月10日

米軍はキルクークで記者たちを攻撃

米軍占領によりもたらされた「民主主義」と「報道の自由」のもとで、迫害を受けたり殺されるジャーナリストたちについて。キルクークの近況を、アルジャジーラより。

米軍はキルクークで記者たちを攻撃
キルクーク発
フィル・サンズ
2006年8月8日
アルジャジーラ原文

キルクークにいる何人ものジャーナリストたちが、イラク北部の都市キルk−クの悪化する治安状況を報道しようとしている自分たちジャーナリストとそのクルーを攻撃しているとして、米軍とイラク治安部隊を批判した。

6月以来、少なくとも6つの異なる事件で、イラク人記者たちは、殴られたり、機材を没収されたり、「テロリズム」に関与しているとでたらめの非難を受けたりしてきたと語る。

米国とイラクの上級軍関係者たちも、そうした攻撃が起きたことを認めており、一連の調査が進められている。

イラン資本のアル=アラム衛星テレビで働くサマン・ファフリは、ジャーナリストへの攻撃が起きているのは、キルk−クで暴力が激化していることを記者たちにまともに報じさせないようにするためだと語る。

「状況は悪化しており、それに対して、治安部隊は、ますます多くのエネルギーと怒りを、メディアに向けている」と彼はアルジャジーラネットに語った。

「我々は、あらゆるところから攻撃を受けている。イラク警察、イラク軍、緊急救援活動隊、連合軍、政党などが、我々を、身体的・言語的に虐待している」。

キルクーク攻撃がわきたっている

米国当局とイラク当局は、キルk−クを平和的で団結した都市であると思わせたがっているが、これは、実際のところ分離主義のクルド人、トルクメン人とアラブ人の戦いが行われている場所であるという評判とは対照的である。

アルカーイダ・イラクの指導者アブ・ムサブ・アル=ザルカウィが殺されて以来、キルクークでは、自動車爆弾の爆発が頻繁に起こり、何十人もが死んだ。その多くは、民間人である。

こうした攻撃の現場で写真を撮ろうとすると妨害されると記者たちは語る。

ファフリは、キルク−クで取材し、当局に記者たちへの嫌がらせを止めるよう求める手紙に署名して送った、50人ほどのジャーナリストの一人である。

「我々は、治安部隊が我々の活動を認めること、暴力を繰り返さないこと、メディアの証明書を尊重することを求めている」と彼は言う。「自由なメディアは、イラクで欠かせない」。

「我々は、政府関係者や治安部隊がこの国の法律に従い、いかなる暴力についてもその責任を問うという約束を求めている」。

米軍は、「いくつか」攻撃があったとみている

デビッド・グレイ大佐は、キルクークでの「米軍の行為」を擁護している。

キルクークに駐屯する第101空挺旅団の司令官であるデビッド・グレイ大佐は、記者たちに対して「いくつか」攻撃があったことは知っており、少なくとも、爆破現場で米軍兵士によって意図的にカメラをたたき壊されたAPの記者一人に対しては、賠償がなされるはずだと言う。

彼は、米軍兵士たちは報道の自由を尊重しており、それを妨害する方針など存在しないと言い張る。けれども、グレイ大佐は、「ゲリラの奴らがメディアを操作しようとしている」と述べた。

「民主主義にとって、自由で開かれたメディアは基本原則だ。けれども、バランスをとる必要がある」と彼は言う。

「我々が戦っている敵は、プロパガンダを使う技術に長けていることを正直に認めなくてはならない。だから、警察と兵士の中には、登録された記者じゃなくてプロパガンダの素材を得ようとする悪党たちが現場を撮影しているのではないかという心配があるんだ」。

この発言は、7月23日に行われた緊急ミーティングで彼が述べたものである。記者たちは、このミーティングの様子を記録し、公開しようと望んだが、米軍関係者はそれを小判だ。

民主主義に反する

ニューヨークに本部を置く「ジャーナリスト保護委員会」(CPJ)のジョエル・カンパーニャは、米軍とイラク治安部隊が反民主的な活動を行っているとして非難している。

「イラク人記者たちから、米軍兵士とイラク軍兵士たちから、嫌がらせや脅迫、脅し、妨害や機材没収の被害を被ったとするクレームの数を、心配になるほどたくさん受け取っている」と彼はアルジャジーラ・ネットに語った。

サマン・ファクリ記者は、米軍兵士とイラク軍兵士が記者を攻撃すると述べる。

「米国とイラク当局は、自由なメディアを支持すると口では言っているが、記者たちへのこうした過酷な扱いは、その言葉を裏切っている。こうしたふるまいは、中東地域の独裁政権のものであり、高くそびえる民主主義のものではない」。

CPJの集計によると、2003年に米軍主導でイラクを侵略して以来、74人の記者と27人のメディア関係者が殺されたという。このため、イラクは記者たちにとって世界で最も危険な場所となった。

カンパーニャは、「殺された関係者の大部分はイラク人で、その多くはゲリラ・グループの手によって殺されたものである。けれども、米軍兵士とイラク治安部隊もまた、記者たちにとって危険な存在である。米軍兵士の発砲は、イラクで殺された記者たちの死因として第二位に位置する」と述べる。

昨年、イラク駐留米軍当局は、7人の記者を、テロリズムに共謀しているとして、拘束した。

その後、証拠がないため、全員が釈放されたが、100日以上監獄に入れられていた人もいた。

「けれども、バランスをとる必要がある」。まるで、「人を殺すな」という意見と「人を殺せ」という意見の両論併記のような。

「テロリズム」という言葉については、レバノン元首相がアメリカ合衆国大統領に書いたオープンレターもご覧下さい。

投稿者:益岡
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アラブの魅力と壊されゆくイラク

活発な活動を行っているPEACE ONの高瀬香緒里さんによるワークショップ。8月16日(水)、東京早稲田です。

アラブの魅力と壊されゆくイラク

日時:8/16(水)19:0023:00

場所:交流イベントスペースあかね
(地下鉄東西線早稲田駅下車、徒歩3分)
http://akane.ecity.tv/
03−5292−1877

講師:高瀬香緒里さん

・自己紹介

1978年、京都生まれ。同志社大学文学部哲学及び倫理学専攻卒業。長野県での隠居生活中にイラク戦争開始。現在は、NPO法人PEACE ONにて、イラク支援・文化交流活動に取り組む。同法人理事。27歳。

イラクという国の魅力にとりつかれて早3年半、日に日に情勢の悪化するこの国を、ただ見ているだけというのは辛いものがありますが、それでも愉快なイラーキーと接するのはほんとうにオモシロイ。支援と交流をとおして、これからもお付き合いしていきたいです。そして日本にも、イラクが好きと関心をもってくれるひとが増えればいいなと思っています。最近では、「共謀罪」反対にも力を入れています。

・ワークショップ名

「アラブの魅力と壊されゆくイラク」

・ワークショップ要旨

イラク隣国ヨルダンを訪れ、そこで知った底抜けに明るいアラブの毎日と、突きつけられたイラクの現実とのギャップ。本ワークショップでは、ヨルダン報告を中心に、いかに魅力的な国イラクが破壊されているか、写真と映像を使って、その事実を見ていただきます。

・参考書籍、参考サイト等の情報

「PEACE ONオフィシャルウェブサイト」http://npopeaceon.org/
高瀬香緒里のブログ「PEACE ON DAYS」http://peaceonkao.exblog.jp/

投稿者:益岡
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2006年08月06日

シーア派とスンニ派はお互いをかばい合っている

シーア派とスンニ派の内戦、セクトの殺し合い・・・アメリカ合衆国の占領下で引き起こされた様々な争乱をこうした言葉で報ずる記事も多くなっていますが・・・。

シーア派とスンニ派はお互いをかばい合っている
2006年8月3日
IRIN
Electronic Iraq 原文

バグダード発。ハラン・ムハンマドはとても保守的なスンニ派家族の出身である。彼女と4人の子どもたちは、バグダードの、スンニ派が多数を占める地域で暮らしている。けれども、セクト的暴力がイラクを席巻する中、ムハンマドは、地元のシーア派の隣人たちを自宅にかくまっている。

「私たちは永年、隣り合って暮らしてきました。それが今、この馬鹿げたセクト的暴力のために、シーア派の人々は、このスンニ派の場所から出たがっています」とムハンマドは言う。「けれども、どこにも行き場所がありません。ですから、私はそうした人たちを助け、自宅を提供し、食料と友情を必要な限り提供しています」。

バグダードを拠点とするイラク支援協会(IAA)の報道担当によると、現在続いているセクト的暴力に反対する何百人ものイラク人たちがお互いを助け合っているという。

「隣人の家に避難する家族もいます。また、家を追われた人々に食料を供給するといった支援をしている人々もいますし、現在続いている暴力の犠牲になった罪のない人々を助けるために無料で診断を行う医師もいます」とIAAの報道担当ファター・アフメドは語る。

ハナン・ムハンマドは2カ月近くにわたって隣人たちを自宅に住ませている。彼ら彼女らへの脅迫が職場でも地元でもとても頻繁になったため、子どもたちは学校へ行けず、親たちは仕事を辞め、ムハンマドの家から出ることができない状態でいる。人々が便りにできる唯一の人は、寡婦のムハンマドだけである。

「3年前、私の夫が死んだとき、隣人たちが全面的な手助けをしてくれたのです」とムハンマドは言う。「この困難なときに、彼ら彼女らを放っておくことはできません」。

彼女は政府の仕事についており、二家族のニーズをまかなうために給料を切りつめて使っている。「安く挙げるために食事の質を落とさなくてはなりませんでした」とムハンマドは言う。「けれども、神が将来それを補ってくれるでしょう」。

セクト的攻撃はイラク全土に広まっている。追放・移民省によると、2月にシーア派モスクへの攻撃があって、現在の暴力のサイクルが始まって以来、推定16万人のイラク人が国内避難民となっている。

和解プランが発足してから1カ月たつにもかかわらず、状況は悪化し、イラクでは毎日少なくとも70人の人々が殺されている。内務省の公共情報局が出している統計によると、これらの死のほとんどはセクト的暴力によるものである。

イラクの人々は、同胞の市民を助ける行為により、自分の身を危険に晒すことを知っている。

「私の父は家にスンニ派の家族をかくまっていました。昔からの友人だったからです。それに、その家族は、近所の人たちにより自宅を追い出されてからどこにも行く場所がなかったからです」とバグダードのシーア派住民ユーセリア・アリ(23歳)は言う。

武装民兵が、父のやっていることを見つけ、父を殺しました。そしてかくまわれていた友人たちが逃げ出そうとしたとき、家族の4人全員を民兵たちは殺したのです」とアリは言う。

こうした危険にもかかわらず、イラクの人々は、友人や隣人をかくまい続けている。

「そうした家族をかくまっておくことの危険は承知しています。けれども、よく考えなくてはいけません。もしそうした人々に背を向けたら、逆に私たちが助けを求めたときにも、同じ扱いを受けるでしょう」と、バスラ出身のシーア派であるカリッド・ハッサン(34歳)は言った。

彼は、バグダードのシーア派地区にある自宅に、スンニ派の友人4人をかくまっている。4人が、テロリズムを行っているという無名の脅迫を受け始めて以来、かくまうことにしたのである。

「良き日々に友人だった人たちのことを忘れるわけにはいきません」とハッサンは言う。「彼らは良い人たちで、テロリズムに加担もしていません。けれども、私が暮らす地区では、スンニ派であるというだけで、ゲリラだと非難されるに十分なのです。この微妙なときに、保護の手をさしのべずに彼らを放っておくことはできません」。

隣人や親戚にかくまわれている人たちはそれを喜んでいるが、いつまでそうした状況が続くか心配してもいる。

「友人たちが与えてくれる助けにはとても感謝しています」とアドナン・アブドゥル=ザフラ(39歳)は言う。彼は隣人にかくまわれている。「彼らは、私たちが彼らの家で気楽に安心していられるようあらゆることをしてくれます」。

けれども、と彼は続ける。「家の中で囚人になったように感じ、何も手助けできず、お金さえ提供できないのは、つらいことです。自宅を追い出されるときに、すべてを失ったものですから」。

紛争のとき頻繁に起きることだが、子どもたちが最も大きな苦しみを受ける。イラクで家を追われた人々のうち半分近くは子どもで、医療も教育も受けられない状況に置かれている。多くが貧困に追いやられたキャンプやモスク、使われなくなった学校や政府建物にすねいる。

「学校が懐かしい」とアフメド・アル=フリ(12歳)は言う。家族は、隣人のうちに避難している。「父親が脅迫を受けて以来、兄弟も私も、授業に行かなくなった。医者は、私の健康状態が良くないと言うけれど、治療を受けに行くのも、とても難しい。どんな理由があっても、友人の家から出るのを、家族は怖がっている」。

壁の外では緊張は高まっているが、こうした家の中では、宗教的な違いは何の問題でもない。

「これまで、宗教的な違いを話したこともなかったし、信じている宗教が私たちのと違うからという理由で誰かを殺すことも決してなかった」とアリ・ジャファー(53歳)は言う。彼は5児の父で、隣人のスンニ派家族をかくまっている。「イラクで今起きていることはとても受け入れられない。私たちの国はイラク人のもので、それは人種や宗教には関係ないんだ」。

ジャファーは、3カ月以上にわたり、家族のほかに6人をかくまっている。全員が私に依存しているというのは、難しい状況だ」と彼は言う。「けれども、そうするのは幸せでもある。セクト的暴力が私たちに平和をもたらすことはないでも、友情は平和をもってくるんだ」。

このニュースは国連人道ニュース・情報サービスIRINから届けられるが、必ずしも国連やその機関の見解を反映するものではない。IRINの文書はすべて無料で再ポスト・再プリントできる。使用条件については、IRINのコピーライト・ページを参照のこと。IRINは、国連人道問題調整局のプロジェクトである。

投稿者:益岡
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2006年08月02日

拘留されていた子どもたちは釈放後も支援がない

イラクで、監獄に拘留されている/いた子どもたちについて。

拘留されていた子どもたちは釈放後も支援がない
2006年8月1日
IRIN
Electronic Iraq 原文

バグダード発、2006年7月31日(IRIN)。

14歳のオマールは、犯罪者ではない。けれども、警察官を見ただけで彼は恐ろしさに身がすくむ。

オマール少年は、先月、イラクの監獄から解放された。7カ月以上拘留されたあとのことだった。「私が逮捕されたのは、家の近くの路上で自動車爆弾が爆発し、それでアメリカ合衆国人が一人殺されたあと、その容疑者だとされたからです」とオマールは説明する。彼はたまたま爆発のとき近くにいて、攻撃の容疑者とされた大人のイラク人たちとともに逮捕されたのである。

オマールは、ゲリラを政治プロセスに参加させ、イラクでの殺傷沙汰を終わらせるという目的の民族和解計画のもとで、6月27日、イラクの監獄とアメリカ合衆国軍が運営する監獄から解放された被拘留者450人の一人だった。

オマールは誤認逮捕だったが、攻撃に参加したことで投獄された子どもたちや、貧困から犯罪を起こした子どもたちが何十人も投獄されていると、国内外のグループは報告しており、また、過去3年間のニュース報道でもそれは示されている。

オマールは、監獄で過ごした経験は恐ろしかったと語る。「私は毎日毎晩、家族のことを考えて泣いていました」。この経験によるトラウマは今も残っている。「もう一度刑務所に入るくらいなら、死んだ方がましです」。

逮捕の理由がなんであれ、イラクの子どもたちは、ときに、大人と同じ監獄に入れられる、と人権団体は述べる。そして監獄から解放されたあと、彼らが路上と犯罪に戻ることを防止するための心理的な支援をはじめとする支援はない。

「イラクの子どもの囚人たちは、社会に再統合するための補助がないため、最悪の犯罪生活への扉が開かれることになります」と、バグダードを拠点として子どもの支援活動を行う団体の報道担当サレー・ムハンマドは説明する。

政府の行動

国際人権法によると、拘留された子どもたちは、大人とは別の、子どものための場所に入れなくてはならず、特別な扱いを受けなくてはならず、できるだけ拘留は短期でなくてはならない。けれども、イラクでは、子どもたちは、2年以上にわたって大人と同じところに拘留されることもあると言う人々もいる。

「私は、2004年9月に、従兄弟とともに逮捕されました。14歳でした」と拘留されていた別の子ども、ムーサは言う。彼は、ゲリラに参加したとして告発されたが、昨年、解放された。囚人たちは電気ショックによる拷問を受け、犬に噛まれると彼は言う。「何度も何度も、同じ房の囚人が、兵士たちに強姦されて戻ってくるのを見ました」。

イラク政府は、子どもたちが長期にわたって拘留されているという主張を否定している。政府関係者は、たしかにテロリズムに関与した容疑で逮捕されている若者はいるが、尋問に必要な期間だけしか拘留していないと述べる。

「どれだけ多くの子どもたちがイラクの監獄に拘留されているのか確認するのは難しい。というのも、とても短い間しか拘留されていないからだ」と内務省の上級職員であるハッサン・オバイドは言う。彼は、全国すべてをあわせて、尋問のために拘留されている子どもたちは、一時に100人を超えないだろうと述べる。

「たしかに、子どもが重大犯罪を犯したり、ときには罪のない人々を殺すテロリズムに関与することがあります。けれども、そうした子どもたちは特別な監獄に入れられます」とオバイドは言う。

彼は、政府が昨月釈放した囚人の中に子どもは一人もいないと語った。「正義を求める被拘留者協会」(PAJ)や「戦争の犠牲となった罪のない子ども救援会」(RICVW)、紛争の犠牲となった罪のない人々のキャンペーン(CIVIC)は、別の見解を持っている。

「彼らは、この問題が国際的に知られるのを望まない。だから、カメラの前では大人を釈放し、カメラの届かないところで子どもを釈放した」と、RICVWのファルーク・サレーは説明する。

「私たちは、釈放された被拘留者の中に子どもが7人いるとの情報を得ました。5人がアンバル州から、二人は首都バグダードからです。けれども、そのうち3人にしか接触できていません」とサレーは続けた。

ニュース報道によると、アメリカ合衆国が運営する監獄には数千人が拘留されているが、そのうち子どもがどのくらいかについての公的な推定は存在しない。

イラクのアメリカ合衆国メディア・オフィスは、自分たちが把握している限りでは、アメリカ合衆国の監獄に子どもは拘留されていないと言う。子どもたちについては、尋問のために数時間、連れてくるだけだと。

PAJの報道担当カリッド・ラビアーは、PAJが、内務省筋と秘密の会合を行い、また釈放された被拘留者から聞き取りをして、この問題について調査したと語る。この調査によると、様々な理由で、200人近い子どもたちが、現在、イラクにある監獄に拘留されているという。彼は、毎週、少なくとも、子ども二人とその両親が、支援を求めてPAJのオフィスを訪れると言う。

「これは政治ゲームではありません。彼らは子どもたちで、子どもたちの権利は尊重されるべきでる」とラビアーは言う。「彼らは真実を隠そうとしていますが、本当のところ、子どもたちは監獄に入れられており、拘留されているときも、解放されたあとも、特別な支援が必要です」。

支援の不在

イラクには、拘留されていた子どもたちを社会に再統合するための支援を子どもに提供する専門の組織がない。

労働社会問題省のある官僚は、現在、予算がないために多くのプロジェクトが麻痺しており、その中には、犯罪を犯した子どもを対象とするプロジェクトも含まれると語る。

「そうした子どもたちが、麻薬や犯罪を求めて路上に戻らないようにするために、たくさんの支援が必要です」と、労働社会問題省の上級官僚彼は匿名を希望したは語った。「既存の部門で子どもたちを支援しようとしていますが、この問題に対処するためには特別なセンターが必要で、イラクにはそれがありません」。

バグダードの精神科医エマード・アブドゥル=ハッサン博士は、拘留されていた子どもたちに向けた支援をPAJに申し出た。彼は、そうした子どもの患者たちに、重大な心理的問題が見られ、攻撃性と残虐さが強くなっており、とりわけ復讐の願望が強く見られることに気づいた。

「彼らは、監獄で苦しんだことに対して復讐しようと考えて監獄を出ます」とアブドゥル=ハッサンは言う。「看守たちに強姦されたり、拷問を受けたり、殴られたりしたと述べる子どもたちもいます。けれども、今のところ、話すのを怖がっています・・・・・・また逮捕されることを恐れているのです」。

ユニセフによると、子どもの囚人は弁護士や家族との面会が保証されていなくてはならず、安全で健康的で、教育的で、十分な食料のもとに拘留しなくてはならず、心理的であるか身体的であるかを問わず、いかなる処罰も受けるべきではない。

ユニセフは、イラクとアメリカ合衆国が運営する監獄での子どもたちの運命についてさらなる情報を集めようとしているが、現在の治安状況および情報にアクセスできないことから、その活動は遅れている。

このニュースは国連人道ニュース・情報サービスIRINから届けられるが、必ずしも国連やその機関の見解を反映するものではない。IRINの文書はすべて無料で再ポスト・再プリントできる。使用条件については、IRINのコピーライト・ページを参照のこと。IRINは、国連人道問題調整局のプロジェクトである。

投稿者:益岡
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2006年08月01日

失業により女性専門家がやむなく家事労働を行なっている

アメリカ合衆国軍によるイラク侵略と占領以来、高まる失業。それがもたらすものの一断面。

失業により女性専門家がやむなく家事労働を行なっている
2006年7月25日
IRIN
Electronic Iraq 原文

バグダード発。ナジュラ・ムハンマド(34歳)は、首都バグダードでも最高の大学の一つを卒業した生物学者である。けれども、不幸にして、失業率が高まったことにより、彼女は、家族を支えるために、家事労働の仕事を探さなくてはならなくなった。

「ほかに選択の余地はなかったのです。もっと良い仕事を探さなければ、家族は餓死していたでしょう」とナジュラは言う。「私は、何年ものあいだ、バグダードの研究所で働いていましたが、研究所は職員全員に給料を払うことができなくなりました。私は、3人の子どもと母を扶養しなくてはならない状況だったのです」。

ナジュラは、現在、家計を支えるために、家政士として働き、一カ月に100から120米ドルを受け取っている。一方、彼女の夫は、経済学の資格を持っているが、1年近くのあいだ仕事が見つからず、仕事に就ける見込みもほとんどない。

3年前にアメリカ合衆国が率いる部隊がイラクを占領して以来、イラクの失業率は上昇を続けている。地元のNGOによると、そのために、ますます多くの女性専門家が、家事労働の仕事を探さなくてはならなくなっているという。

「ほとんどの場合、彼女たちは家政士としての仕事を探します」とイラク女性権利協会副会長マヤダ・ズハイルは語る。「けれども、医者が理容師として働いたり、歯科医がシェフやランドリーの技師として働いていることもあります。ほかにどうしようもなく、貧困が広まっているため、状況はさらに悪化する可能性があります」。

失業の苦境

イラクでは現在、人口全人口のうち女性が占める割合は60%近いの約半数が失業している。「女性の[失業]率は、ほとんど70%に及びます。つまり、多くの女性が、低い地位の仕事を探さなくてはならないということです」とズハイルは言う。

正確な失業率を割り出すことは難しい。2005年、計画省は30%と言っていたが、労働社会問題省は48%と言っていた。ワシントンにあるブルックリン研究所の2005年イラク指標によると、失業率は28%から40%のあいだであるという。

「2003年に失業して以来、仕事を探していました。そこで、家政士として働くことにしたのです」と、バグダード大学で工学を専攻したスハ・アブデル=カレーム(30歳)は言う。「それ以来、家を掃除し、選択をしてきました。4年間、エンジニアになるために勉強したのに、です。けれども、夫を失ってから、私が子どもを扶養しなくてはなりません」。

政府官僚たちは、失業問題はあらゆるところに影響していると言っているが、活動家の中には、ジェンダー差別により女性の状況がとりわけ困難になっていると主張する人々もいる。「男と女のいずれかを選ばなくてはならないときには、とりわけ重要な仕事には、男性を選ぶのです」と女性政治家で活動家でもあるマイスーン・アル=ダマルジは言う。「ジェンダー割り当てがあって、差別が不法とされているならば、今、失業している女性の数はもっと少なかったかも知れません。

屈辱的環境

家事労働により品位をおとしめられると語る女性も、とりわけ学士号を持っている女性の中には、多い。「想像もしなかったことをせざるを得なくなりました。子どもたちの反吐やおしっこを掃除したりといったことです」と28歳のヒバ・ジュメイリは言う。彼女は建築家だが、現在は家政士として働いている。「それを拒否すると、雇い主は私をぶつのです。ですから、黙ってそれをしなくてはなりません。私の子どもたちに食べるものが必要だからです」。

ときに、女性のプロフェッショナルたちは、自分たちの地位以下と見なされることを雇い主が求めたとき、攻撃的な反応をすることがある。「永年勉強してきたあとで家事労働をするのは彼女たちにとって難しいのです」とズハイルは言う。「酷い扱いを受け入れることもできないことがよくあります」。

イラクの女性リハビリ雇用センターの代表ジェナン・ムバラクによると、「差別とハラスメント」は、家政士として仕事をしている女性の多くにとって日常的である。

さらに悪いことに、教育を受けた女性の多くにとって、家事労働に就く経験がとりわけ苦痛なものになるのは、伝統的に家事労働が軽蔑されてきた仕事だからである。「私が家政士として働いているために、友人の多くは態度が変わりました」とジュメイリは言う。「私の社会階層が彼女たちのとはもう同じじゃないという理由で、遊びに来なくなった友人もいます」。

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投稿者:益岡
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